日本の公営ギャンブルとは

sdf88 ギャンブルとは、誰も予想がつかない未来に対し、お金を賭け、当たった者にのみ賭け金を与えるものです。我が国においては、公営ギャンブルと呼ばれる競馬、競輪、競艇、オートレースの4つの公営競技のみが、公営ギャンブルとして認められています。ラスベガスやシンガポールのマリーナベイサンズで、夜毎繰り広げられているカジノは、残念ながら国内では認められていません。 

その理由として、我が国では刑法第186条及び第187条により、賭博は社会経済を脅かす悪そのものであり、国民の勤労精神を損ね、社会悪や組織悪の温床となり、賭博自体を規制することそのものに社会的利益があるとされているからです。この考えには思わずえっ?と疑問を呈しざるを得ません。何しろ、この判例は昭和25年の最高裁判例であり、60年以上も前のあまりにも時代がかけ離れた考え方だからです。

ただこうした考え方は、親や教育者全般に受け継がれていて、我が国は未だにギャンブルという言葉に強い拒絶反応を抱く人が少なくありません。この点、イギリスなどではウィリアムヒルを中心に一般市民が街角でギャンブルを楽しめる感覚が異なるのでしょうね。

私はギャンブル全般が大好きなのですが、ギャンブルが好きを公言することがはばかられる風潮を常に感じています。現在アベノミクス第5の矢として、我が国でもカジノを解禁し、経済を活性化しようとする動きがありますが、なかなか審議が進まないのも、こうしたギャンブルに対する負のイメージがつきまとっているからに他ならず、とても残念に思っています。

例えば昭和の時代の競馬場や場外馬券場に行くと、日中から酒を呑んであちらこちらに転がっている人がいたことは事実でした。競馬新聞は破れて散乱し、外れ馬券も紙くずのように舞っていました。トイレなどは外れた腹いせに蹴飛ばした跡があったり、卑猥な落書きがあったりして、やるせない怒りが物理的に残っていたものでした。まさに寺山修司が謳った人生の敗残者のうごめく哀歌そのものの世界でした。

しかし、時代はすっかり変わりました。ギャンブルに対する考え方もすっかり変わりました。その理由は、世の中の価値観が多様化し、ギャンブルにのめり込む人が少なくなったからです。実際公営ギャンブルの売上高は毎年度前年度を下回っており、ピーク時の4割から6割程度にまで、減少しています。

これは、日本唯一の民営ギャンブルと呼ばれるパチンコやパチスロも同じで、ピーク時30兆円もの売上げがありましたが、今や18兆円にまで減少し、3,000万人と呼ばれたファンも1,000万人を切っています。

現在のギャンブルは、ギャンブル依存症的な人と小額のお金を賭けて夢を楽しむ人の二極化が進んでいます。現在の競馬場や場外馬券場は、近代的で明るく開放的です。競馬場には子供が楽しめる広場があったり、おしゃれなレストランがあったりと、一見アミューズメント施設と見まごうほどです。

私はようやく我が国もギャンブルを文化の一つとして受け入れる時代が近づいてきたとほくそ笑んでいます。

競馬の場合、馬券は100円から購入することができます。年間を通じて稀に万馬券が出ることがあります。これは、100円が1万倍すなわち100万円になることがあるということです。特に3連単と呼ばれる、1等、2等、3等の順で当てる馬券の場合に発生する頻度が高いのですが、確率的にも数千分の一ですので、天文学的な低確率の宝くじと比べても夢があります。また、反対に複式単勝式といって、3等以内に1等が入れば配当が出る賭け方もあって、高確率低配当で、当てること自体を楽しめます。一日遊んでも損失が大きく膨らまない賭け方もあります。

自分が予想し、それが当たったときの瞬間は、たまらない快感です。まるで、未来に起きることを当てることができたことに全能感を覚えます。大げさな表現ですが、ここで当てるために、これまで生きてきたと思うほどです。反対に予想が外れたときの喪失感は、たまらないほど残酷で、生きる気力さえ失いかけます。まるで臨死体験を味わうようです。しかし、こうした体験は、自分の人生が順調でないときに、乗り越える力を与えてくれるものと確信できます。ギャンブルを楽しむ人間は、普段味わうことができない全能感と喪失感を経験することによって、どんな困難なときであっても、ふてぶてしさとたくましさを持っています。

ギャンブルは小額で楽しめば、必要以上に損失を被ることなく、全能感や喪失感を体験できるまたとない機会で、人生を豊かに楽しむことができます。ギャンブルは悪だというステレオタイプの人々の意見に左右されることなく、まずは自ら体験してみると、その楽しさが理解できるものと確信しています。